生きづらさを愛おしさへ

聴く専門家・春香のブログ

『寂しい』なんて口が裂けても言いたくなかった私が口にするまで③

 こんにちは、カウンセラーの春香です。

昨日、母の三回忌のため里帰りしていたんですが、高速のSAで絶対買うと決めていた

徳島の鳴門金時を使って作られた、芋きんつばを手に入れ、自分一人だけでこっそりにんまり食べては、幸せを独り占めしています(^^)

 

さて、前回からの続きです。

『寂しい』なんて口が裂けても言いたくなかった私が口にするまで① - LIFE ➕ 生きづらさも包み込んでみる

『寂しい』なんて口が裂けても言いたくなかった私が口にするまで② - LIFE ➕ 生きづらさも包み込んでみる

 

 

「寂しかった」と伝えるべき相手が母親だと気づいたのは、体感で分かりました。

夫に伝えた後に、夫に伝えた「寂しかった」より深いところに、まだ「寂しかった」が存在するのが分かったんですね。

 

その頃の私は、長年思っていたけど気づいてはいけない認めてはいけないと感じていたことに、抵抗を感じながらも向き合っている途中でした。

それは、「母が重たい」ということ。そう感じながらも、母と娘ってこんなものだろうと思っていたし、長年「いい子」で居た自分にとっては、「母が重たい」と感じること自体が悪いことのように思えて、罪悪感を抱えたままゆっくり進んでいました。

毒親関連の本を読んだり機能不全家族について調べたり、アダルトチルドレンについて調べたりもしながら)

 

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 自分がどれだけ我慢していたか、母親から安心感を得られたことがなかったこと、

いつも母が世間体重視だったこと……。自分が思っていたよりも大きな怒りが自分の中にあることが分かっていながらも、それまで身に着けてきた知識が邪魔をする。

誰かに言いたいことは自分が自分に言いたいこと。母に向けた怒りを紙に書き殴るも、

自分が如何に自分を苦しめてきたかにばかり目が行き、母に対する怒りをただ吐き出すということが中々出来ない。(当時は分からなかったけど、どうしてただ怒りを出すことが出来なかったのかが、今は分かります。それぐらい罪悪感が強かったということ。)

 

 「母が重たい」と同じくらい「母が可哀想」も私の中にありました。事故に遭い、難病を発症し、モラハラギャンブル依存症夫から大切に扱われない母。常に自分が何とかしないとと、誰かの為に動く母。そして、誰にも言えない愚痴を私にこぼす母。なんとなく、多分母は誰にも本音を言えないんだろうなと感じていた私。

 

 どう見ても一緒にいることで幸せにはなれそうに見えない両親。いつだったか、多分10代後半ぐらいだったと思いますが、

「なんで離婚しないの?離婚したほうが幸せになれそうやけど。」

と聞いたことがありますが、母は、途中から泣きながら

「あんたらの為に我慢してきた。病気じゃなかったら離婚してる。あんたらの結婚のハンデになりたくない。あんなお父さんでごめんね。」と言ったんですね。

 

 聞きながら悔しさが溢れてきて、「離婚しない言い訳に私と兄を使わないでほしい。片親だから幸せになれないって決めつけるのはおかしいと思うし、そんな理由で結婚できないっていう人を私は選ばないし、兄もそうだと思うし、私と兄をバカにされてるようで腹が立つわ。あんなお父さんって自覚があるのに、なんで続けてるのかが理解できない」と返す私に、母は泣きながら、でも…だって…を繰り返すばかり。

 

 この時感じた悔しさは、あんたたちの為にと言いながら私と兄を自分が変われないための言い訳に使われたこと、父を否定された=自分を否定されたと感じたことだったからだと思います。

 

 過去を思い出しては怒りに気づいて、ゆっくり吐き出して…また怒りが湧いてきたら

吐き出す…。出しても出しても終わらない。そんな中でも現実では母から電話がかかってくると、母の相手をする。母からの着信だということに気づいた時点で気分が重くなっていました。思い返せば、私が結婚してから私から電話をすることはほぼなかったです。

 

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 ゆっくり進んだり立ち止まったりを繰り返す中で、母がガンを患っている知らせが入ります。

直感で「母は恐らくもう長くない」と感じました。母と向き合うという課題を後回しにしてきた私は、悩んだ末、北村真代ちゃんを見つけ、子供をうまく愛せていないように感じては自分を責めていたこともあって、子育てからの切り口でも親に行きつくと予想がついていたので、思い切って1ヵ月のLINEグループカウンセリングに申し込みました。

 

 そのグループカウンセリングで共通していたのは、「抑えてきた怒り」でした。

最初は中々出せないんですね。こんなこと書いてどう思われるんだろうという他人の目が気になって。吐き出して吐き出させてもらって、よく泣いていたと思います。

グループカウンセリングの終わりごろに、いろんな気づきがあったものの、私はまだ肚の底から理解できる体感は無かったんです。真代ちゃんに「春ちゃんは殻が固い」と言われたのが当時は分からなかったけど、今は分かります(^-^;それぐらい感情を抑え込んできて感情麻痺を起こしていたということに。。。だからイメージワークも出来なかったんだなと。。。夫婦にはそれぞれの夫婦のコミュニケーションの仕方があると知り、父と母が一緒に暮らしていても家庭内別居のようなスタイルをとっていることも、理解できるような理解できないような…という感じでした。

 

 でも、真代ちゃんのLINEカウンセリングで、小さな私が母の足元で母にしがみついたまま大人の私をにらみつけているのが見えたんです。それが見えた瞬間、怖くなったと同時に、小さな私を「迎えに行かないと」と感じたこと、思考と心が離れたままだとこんなに苦しいんだと痛感したことで、母に伝える決意が固まりました。

 

 入院中の母に、メールで「ねえ、お母さん。私のこと可愛かった?」と聞いてみました。「可愛かったよ。あんたのプリプリしたお尻に癒されてた。」と返事がきたとき、

涙がこぼれるけど、納得できなかったんですね。可愛かった娘になぜ過干渉になり、依存してきたのかが。。。

 

 そして、母に会いに行きます。やせ細って思うように動けなくなった母と、あれやこれやと話している間に、カウンセリングを受けたことを伝え、ずっと言いたかったことがあると前置きをした上で、

「本当はお店を始めた子供の時から、寂しかった。でも心配かけたくなくて言えなかった。お母さんが不幸そうで可哀想な人に見えてずっと悲しかった。」と伝えました。気づけば私はしゃくり上げて泣きながら伝えていました。

ベッドの上で母は、「そうか、そうやったんかぁ、知らんかったぁ。ごめんね。」と静かに返してきました。このとき、初めて母に受け止めてもらえたという体験をしたように思います。何を伝えても、「でも…だって…」だったり、口を一文字にして黙り込んで不機嫌になったり、「親の気持ちを考えなさい」と返してきた母が、この時だけは静かに聞いて受け止めてくれました。

ここでもまた、伝えても大丈夫だったということ、伝えなきゃ気づいてもらえないということを改めて感じました。

 

 

「寂しかった」を口にするまでシリーズは、これで終わるだろうと思っていたこの頃の私。。。

しかし。。。もう一人現れるとは。。。

 

 

今日も読んでいただき、ありがとうございました(@^^)/~~~