◇内的変容(背負わない/引き受けない)◇
愛しい皆さま、こんにちは。
春香です。
ここのところ、自分の変化に自分で気づくようになってきたので、記録がてら、書いていきます。
感受性が高いと、いろんなものを無意識に受信している。人の感情、思考、言葉になる前のもの、場の空気。
そういうものを、自分のものとして捉えてしまいやすいから、これまでわたしは、他人の感情や投影を引き受けたり、背負ってきたんだと思う。
その結果、罪悪感が強くなったり、疲れやすくなったり、身体が重くなったりしていた。
でもそれは、弱さというより「生きるための戦略」だった。
感じすぎる性質を抱えたまま、なんとか日常を生きるために、幼い頃から神経も思考も過剰に働いていた。
生命を感受性を守るために、脳や神経が全力を挙げて配備した、と思ったら、この生きづらさもなんだか愛おしく思えた。
でも、「生きるため」と「自分として生きるため」は、全然違う。
ある男性と話していたときのこと。
その人は、わたしの状況を気にしてくれていたので、現状を伝えた。
すると、その男性の中にある不安が刺激され、怒りのような感情として表に出てきた。
不安からくる怒り。
それを間近で感じた瞬間、わたしの身体は一瞬固まり、同時に気づく。
「こうやって人の感情をそのまま受けて、自分が悪いと思い込んで、罪悪感を持ってきたんだな」と。
でも、その瞬間に意識が切り替わった。
「もう背負わない。返す。」
そう静かに思ったあと、わたしは相手の方を見たままそこにいた。
すると男性は少し沈黙したあと、わたしの目を見て、わたしを気遣う言葉をかけてくれたあと、落ち着いた様子で、彼自身がやるべきことの話を始めた。
別の日。
いつも二人で散歩している高齢のご夫婦の奥さんを見かけた。
その日は、奥さん一人だった。
わたしは違和感を感じて庭から声をかけると、前日にご主人が救急搬送されたと教えてくれた。
驚いた。ついこの前まで元気そうに見えていたから。
わたしは庭からフェンス越しに、話を聞いた。
奥さんは一通り話し終えたあと、ふっと息をついて、涙を流した。
その涙を見たとき、わたしは「流れた」と感じた。
「一人でいるから、話すこともなくて溜まっていた。聞いてくれてありがとう。すっきりした。」
そう言って、奥さんは帰っていった。
以前のわたしだったら、もっと踏み込んでいたと思う。
農道に降りて一緒に歩いたり、家まで送ったり、後日ご飯を作って持っていったり、様子を見に行ったり。そういうのが普通の環境で育った。
でも今は、ただ話を聞いただけ。
滞りが流れた。
それで、完了。
もしまた気になれば、そのとき行けばいい。
感じ取っていることを、自分と同一化しなくなった。
受信することと、背負うこと・引き受けることは違う。
そして今は、その違いの中に立てていると感じてます。