生きづらさを愛おしさへ

聴く専門家・春香のブログ

『可哀想』について考えてみた

 

 

 

 

愛しい皆さま、こんにちは。

カウンセラー春香です。

 

 

雨がよ降り続けている数日ですが、皆さんのお住まいの地域は大丈夫でしょうか。

 

 

 

今日は、『可哀想』について考えたり振り返ってみようかと。

(長文です。瞬きしてね。)

 

 

先日のお話会でも『可哀想』という言葉が何度か出てきまして、私も『可哀想』をベースに行動していたなぁと思い出したんですよね。

 

明確にいつからだったかは覚えていませんが、可哀想に見える人、大変そうな人、寂しそうな人、悲しそうな人を見ると、私は…放っておけなかったり自分から声をかけたりすることがよくありました。

 

ちょっといつもと雰囲気が違うクラスメイト、飲み会で1人で居る人、いくつも仕事を抱えてアタフタしている人、あまりの忙しさに慌てている人、辛いことがあって落ち込んでいる人などには声をかけ、

 

ちょっと荒れ気味の人、自分の良いところが見えていない人、後ろ向きな発言ばかりする人には声をかけるというより、あんたはそんな人間じゃないはず!みたいに熱く語るということも。

 

頑張っている人には応援したくなり、あれやこれやしていたように思います。

 

多くの人から「あの人はいい人!」と太鼓判を押される人よりも、「ちょっと陰のある…」「やめておいた方がいい気はする…」「大変そう…」と感じる人に惹かれたり。

 

皆さんもこれまでの人生の中で、そんな場面がありませんでしたか?^^

 

ありますよね?👀👀👀

 

ん?あれ?なんか気になる…と気づいたりすると、そっちに引き寄せられるような…。そんな感覚もあったように思います。

 

 

そんな私は『助けたい症候群』でした。(ドラマチック症候群でもありましたよ)

 

他人の出来事を自分のことのように感じたり、可哀想…どうにかしてあげたいと放っておけなかったんですよね。

 

そして、それをすることで相手が喜んでくれたり、何らかの反応だったり、仕事だったら評価を貰えるのも嬉しかったです。

 

でも、次から次へと何かしらの出来事だったり、誰かしらが現れては終わることが無いと感じたり、その時その時一生懸命にやっても報われた感じがするのは一瞬でした。

 

 

私たちは、親のもとに生まれ育ちます。

 

大人になった今の自分では考えられないほどの純粋さで、親を見ています。

 

小さい時は、親が世界の全てと言ってもいいくらいかもしれません。

 

ただただ、親の笑顔を見たかった、笑っていてほしかった。大好きだから。

 

親には親の事情があって笑顔で居られなかった…ということが子供時代の私たちには理解できないので、親を笑顔にできなかった、親を喜ばせられなかったという無力感や無価値感、自分が悪い子だからかもしれない…という罪悪感を無意識に感じてしまうんです。

 

 

私たちは、どれほどの熱視線で親を見ていたんでしょう。

そして、どれほど親の笑顔を、幸せそうな姿を求めていたんでしょう。

 

 

私の場合ですと、3歳から親と過ごす時間が激減し、夜は祖母や子守り係にお世話をしてもらっていました。兄が一緒に居てくれましたが、思春期になる頃には1人の夜時間が増えて、『寂しさ』は募っていきました。

 

そして母が事故に遭い、母の痛々しい姿が辛く悲しいのに自分には何も出来ないという無力感、その後母が難病を発症することも加わり、益々悲しみや不安・寂しさを感じるようになります。

 

でも、大変なのはお母さんなんだからと、自分の感情は抑え込んでいきました。

 

だってお母さんは大変だし、苦しんでいるし、可哀想だから。

 

それなのに、元気なお母さんがいいと思うなんて、私は悪い子。

 

この頃の私は小学4~5年生。先生やクラスメイトに母が事故に遭ったことや病気になったことを知られるのが嫌だったんです。心配されたり可哀想がられたらどうしようって思っていたから。

 

私が成人して実家の商売を手伝うようになり、母の置かれた立場を以前より理解することや、以前から聞いていた母の愚痴がよりディープになったこと、父の借金を病気の母が返していたこと、母に何度か泣かれたことや謝られたことなど、着々と『お母さん、可哀想』が揺るぎないものになっていきました。

 

子供の頃には出来なかった母を助けるということを、私はきっとしたかったんでしょうね。

 

母が私に求めすぎていることに違和感や憤りを感じながらも、出来るだけ母の期待に応えようとしていたのは、母の為という純粋な想いもありますが、他の要因もありました。

 

私は罪人だから罪を償わないといけない。

夫(私の父)に大事にされず病気の母は可哀想だし、父は好き勝手してばかりだから、母の代わりに元気な私が頑張らないといけない。

私には価値が無いから役に立つことで価値を見出さないといけない。

 

そういった思いもありました。(当時は気づいていません)

 

 

『可哀想なお母さん』に見えていました。

可哀想なのはお母さんだけだと思っていました。

 

でも、もう1人居たんです。可哀想な人が。

 

それは、『私』でした。

 

 

子供の頃から寂しさ、悲しみ、不安、心配を抑え込んできた『私』。

 

ずーっと気づかないようにしていたのは、『可哀想な私』を見たくなかったから。

 

何かや誰かの為に頑張っている自分しか見たくなかった。

 

私の中に『可哀想な私』が居るから、私の目に映る世界に寂しそうな人、大変そうな人、悲しそうな人、可哀想な人、不安そうな人が現れていたんです。

 

『可哀想な私』を見たくなかったのは、その自分を弱くて情けなく感じたり、当時思っていたこと(健康なお母さんが良かった、しんどそうなお母さんは見たくない、神様は意地悪)を悪いことだと思っていたから。

 

 

そして、『可哀想な私』を奥においやったまま結婚・出産した私は、我が子たちにも『可哀想』を発動させたんですね。

 

『可哀想』を発動することで、子供によかれと思って先回りして、あれやこれやしてしまう自分は、ああはなりたくないと思っていた母と同じでした。

 

自分が見たくなかった受け入れがたい『可哀想な私』『自分が嫌っている自分』を見せつけてくる子供に厳しくしてしまう。

 

そして、そんな自分に自己嫌悪したり、こんなお母さんでごめんね…と子供の寝顔を見ながら罪の意識を感じたり、子供が思春期・反抗期になれば暴言を吐かれて怒りが爆発したり、暴言がココロに刺さって傷ついたり。

 

色々ありましたよ^^

 

可哀想と思うことは悪いことではないと思うんです。その人のことを思う気持ちがあったり、その人の気持ちを想像することが出来るからこそだから。

 

ただ、その人と自分は違う人間ということを、私は忘れていました。

 

考え方、受け止め方、表現の仕方、解釈の仕方、感じ方は人それぞれ。それなのに、近しい人だと、無意識に”自分と同じだろう”と思い込んでしまったり、期待してしまうものなんですよね。

 

”自分と同じだろう”の中には、”そうするべき”というマイルールや、それぐらい自分が誰かの期待に応えてきたということも入っています。(無意識にやっているから無意識に他人にも押し付ける場合もあります)

 

 

お母さんは本当に可哀想な人だったのか?という視点から振り返っていくと、決して可哀想な人ではなかったと今は思っています。

 

誰からも慕われて、お願い上手で、いつも他人のことや目の前の現実のことを考えていた母。病気になってもお金を生み出し続け借金を返し続けた母。とても強い。

 

『可哀想なお母さん』として見すぎていたため、私が母の力を奪っていたかもしれません。

 

 

そして、私は可哀想だったのか?という視点から振り返ると、めちゃくちゃ可哀想だったなと思いました。やっと認められたというか。

 

どれだけ自分を可哀想な目に合わせてきたんだろうということや、どれだけ自分は頑張ってきたんだろうということにも気づいて、沢山泣きました。

 

『可哀想な私』の我慢していた沢山の思いに寄り添い、受け入れたり解放したり、自分の愛に触れたり、頑張ってきた自分を沢山褒めてあげました。

 

 

そして、我が子たちは『可哀想』なのか?

私が子供時代にしなかったこと出来なかったことを、いとも簡単に目の前でしているこの子たちは『可哀想』なのか?

 

子供らしく表現できているこの子たちは、私とは違うんだなと羨ましいような嬉しいような気持になったり。

 

思春期・反抗期(親を嫌うことを含む)は自立への大きな一歩であり、思春期・反抗期の心身の変化は自分自身も戸惑うくらい大きいものでもあり、それをどう表現していいのか分からなかったり、抑え込んでいたなと思い出したり。

 

母でもある自分自身を責めたくて罪の意識を感じたくて、子供に色々と言わせていたのかもしれないとも思いました。(ドМですから)

 

『可哀想な私』と向き合うことや受け入れていくことで、子供からの暴言が刺さらないようになったり、気づけば暴言が無くなったり。

 

可哀想・心配・不安が入り混じって、子供たちをコントロールしていたとも思います。

母にされて嫌だったことを、我が子にしてしまっていました。

 

コントロールされている時に感じる不快感は、信頼されていないと感じたり、強要されているとか、自分のことを尊重されていないように感じるからなのに、私はやっちまっていました。

 

 

やっぱり自分自身なんだなと思います。

 

そして、色んな感情から人を助けたいと思っていたけれど、本当の意味で助けられないことを知りました。

 

お手伝いやきっかけを作ることは出来たとしても、その人の代わりにはなれないし、その人がどうしたいかが大事なんですよね。

 

その人の課題は、その人のもの。

 

そして、その人には力がある、大丈夫、という意識でその人を見るか見れないか。

大丈夫と思えないからコントロールしたくなると思いませんか?

 

これも自分自身なんだと思います。自分の中に在るものしか見えないので。

 

 

助けたい助けたいと思っていたのは、自分が助けられたかったから。

 

『先ずは自分から』『自分から幸せになりましょう』なんて知らなかった頃の私のお話でした。

 

 

あなたには、『可哀想』に見える人は居ますか?

その人を通してあなたは何を感じたいのでしょう?

そして、何に気づきたいのでしょうか?

 

 

それでは、今日はこの辺で。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました💛

 

 

 

 

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