◇初めての小豆島と、私と、罪悪感◇
愛しい皆さま、こんにちは。
話を聴く専門家の春香です。
私が住んでいるのは香川県。
香川県民になって、もう20年近い。
それでも行ったことがない場所が県内あちこちにあります。
先日、娘と一緒に小豆島に行ってきました。
フェリーに車を乗せて。
出発した時には、空には雲がかかり曇天にも見えるけど、お日様が差し込んでくると光が広がり、なんだか神秘的でもありました。
1時間ほどで小豆島に到着。
女性専用のゾーンの一番前の席に座っていたんですが、目の前の景色をバックに外国人観光客が次から次へとポージングをしながら写真を撮っていた様子が、とても可愛らしくてニコニコしながら見ていた私です。
義母さんに頼まれていたお買い物を済ませ、お店の人に色々と観光情報を教えてもらったり、道中に食べてねとお菓子をいただいたり^^
ありがとうございます~!!しか無い始まり。
ロープ―ウェイで寒霞渓に登るか、車で行ってしまうか。
とりあえず行ってみようと車で行きましたら、初めての道、どんどん上がっていく勾配、紅葉の木々のトンネルの美しさに魅了されながら運転していたら、あっという間に寒霞渓に到着です。
あ、もう着いちゃった。。。というのが感想
晴れ渡る空と、海と島。
着いて思いました。
ロープ―ウェイで登りながら観た方が良かったよね…と。
寒霞渓に居るんだけど
寒霞渓を取り巻く景色や紅葉の美しさが見えない。
(全く見えないわけじゃないけど)
灯台は暗闇の海を照らす光だけど
灯台自身は自分の光具合が分からない…みたいな👀
(自分の魅力に置き換えてみても自分自身では分からない…みたいな)
とりあえず娘と探索して写真を撮ったり、コロッケを食べたり。
私は高所恐怖症なので、柵があるから大丈夫と分かっていても、崖の先端に近づくだけで足がすくんで怖かったです。腰が引きまくり。
続きましては、樹齢1,600年と言われるシンパクという大樹を見に、宝生院というお寺に行きました。
物凄い存在感なのに、優しくそこに居てくれているような雰囲気で。
長い間この場所で生きているその佇まいに、ただただ圧巻されたり、エネルギーをもらったり浄化されたような…という時間でした。
ホントに気持ち良くて
居てくれてありがとうと思える時間です。
続きましてはオリーブ公園に行き、お腹ペコペコだったので腹ごしらえ。
店内から見える景色が最高で。
パスタもパンも美味しかったのに、写真を撮り忘れました。
(どれだけ食べることに集中していたのか)
オリーブ公園内にあるジブリを感じさせる可愛らしい建物。
ほうきが貸し出しされていて撮影時に使えるようになっていました👀
ご主人が、ほうきを持つ奥さまにポージング指導しながら褒める様子が、最高に癒される瞬間でしたよ。
行く先々でご主人が奥さまにポージング指導する場面に出くわし、微笑ましかったです^^
ええなぁー仲良しって💖
夫が恋しくなりましたね。
あたり一面オリーブ畑。
ランチの後のデザートもしっかり食べる娘を見ながら、若いって素晴らしいと思いました^^
暑すぎず寒すぎず、良い日に行ったなと思います。
満腹になり運転の疲れも出てきたので、帰りのフェリーを1便早めて帰路につきました。
変更可能かどうか聞いてみて良かったです。
快く対応してくださったフェリー会社の方にも感謝が湧き上がりました。
*****
今ね、正直、私、しんどいと感じる状態なんです。
日々揺れたりするし、辛くて泣いてしまうことも、嬉しくて泣いてしまうこともあります。
思わず独りの世界に向かいたくなることも、あります。
これまでのパターンで、罪悪感から背を向けようとしてしまうこと。
自分は良くないものである、毒であるという感覚から、自分のことを人から遠ざけることで自分を守ったり、毒であるように感じる自分から他人を遠ざけることで、他人を守ろうとしてきた繰り返してきたパターンが、まだまだ私の中にあるんです。
弱っている自分を見られたくない。
良くないと感じる自分を知られたくない。
助けてもらえる資格なんて自分には無い。
だって私は罪人だから。
(親を助けられなかった幸せにできなかったという勘違いからなんですが…どれだけ愛してたんでしょうね。愛しかないのに、愛が無いと思い込んできた私)
そういった思い込みが、私にあるんですよね。
「ある」ということを認めることも、こうやって文章にして表現することも、以前の私には出来ないことでした。
隠しておかないといけないことだと思っていたので。
エゴが頭の中で囁くわけです。
「そんな自分を知られたら大変なことになるよ~」
「後ろ指さされるよ~」
「嫌われちゃうよ~やめといた方がいいよ~」
そうやって何重にも隠すことで、他人からの愛を受け取ることも、他人に愛を与えることも自分に禁止してきたんだなと改めて見つめています。
罪悪感に塗れている自分に✖をつけることでより孤独を感じたり、自分から背を向けて独りになることで自分に罰を与えてきたんだなと。
(ものすごいドМですよね…)
罪悪感を感じることで、自分が喜びを感じることを禁止するだなんて、ねぇ。。。
とんでもない自分イジメを長年やってきたな~とも感じています。
もし仮に、今の私が大切な友達だったら、「そんなこと気にせずこっちにおいで!!」って言うだろうに。自分には厳しいんですよね。
それでも、私に関わろうとしてくれる人たちが居ること。
その人たちに背を向けるのか?と問いかける自分が居ること。
弱くて格好悪い自分をもう独りにしない選択をしてもいいこと。
辛い時には辛いと言っていいこと。
心理学を学んで変化してきた私が居ること。
受け止めてくれる人が居ること。
理解しようと寄り添ってくれる人がいること。
励ましてくれる人がいること。
人前で泣くなんてカッコ悪いわ!!と斜に構えて感性感覚を切って生きていた私が、人前で泣きながら話を聴いてもらったり、文章でのやり取りで、今とても救われています。
正直、怖いです。
見せるのも知られるのも。
直前まで物凄い体感の悪い抵抗を感じますし、背を向けたくもなります。
でも。
本当は、ずっと助けてもらいたかった私が居るんですよね。
周りの様子を見ながら何十年も呑み込んできた言葉や思いが、今、やっと人前で出せるようになってきたのかもしれません。
子供が困っていれば、どの親もきっと何か力になりたいと思うはずなのに、『自分』だけは違うと除外していたり、『大丈夫』な自分であろうとしてきたのも、子供だった私なりの親への愛情表現だったんだと思います。
子供に手を差し伸べることで、新しい気づきや癒しが起きたり、自分と子供は違う人間なんだと確認できたり、一緒に過ごすことや感じること、共に考えること、胸を痛めるくらい子供への愛や罪悪感があること。繋がりを感じること。
辛く感じることの中にも沢山のギフトがあるのに、私はそういったものを両親に与えさせてこなかったんだな~とも思いました。(色々としてもらってることはありますけど、弱さを見せる、助けを求めるということはしなかったな…と)
家族の誰かに何かが起きると、その問題に見えるようなことに対して力を合わせて乗り切るとか、試行錯誤しながら向き合っていきますよね。
なんか・・・両親よ・・・ごめん・・・ともなりました。
もう両親は居ませんが、心の世界には制限がありません。
肉体は無くても両親と繋がることは出来るし、私の罪悪感を引き受けてもらうという助けを求めることも出来る。1人でどうにかしようとしなくていいという選択肢があるだけでも感覚が変わります。
1人で辛いとき、寂しいとき。
誰かに話を聴いてもらいたいと思うとき。
誰かに受け止めてもらいたいと思うとき。
ありますよね。
それでも1人でどうにかしようとしてきたこと。
ありますよね。
1人では難しい時は誰かにお願いできたらいいのに。
そう思うこともありますよね。
助けを求められなかった私が言うのもなんなんですが…人って誰かの役に立ちたい生き物だと思うんです。
あなたが頑張ってこられたのも、誰かの役に立ちたかったり、誰かの笑顔を見たかったからではないでしょうか。ね。
上手くまとめられませんが…
どうか1人で考えすぎないでくださいね。
考えすぎることでも疲弊していきますから。
どうかあなたが少しでも安心できますように。
よかったらお話を聴かせてくださいね。
*****
気持ちが揺れていても、美しい景色を見て美しいと感じられたり、美味しいものを食べて美味しいサイコーと感じられることにも、なんだか感謝です。
ずっと外に向かって『幸せ』や『幸せになる方法』を探してきましたが、実はずっとすぐ傍に私の幸せがあったんだな~今まで何を見ていたんだろう~とも感じる日々です。
何気ない日常の1シーンに泣けるという。
幸せを感じられること、もの、ひと、こころに繋がって、楽しみたいものです^^
長くなっちゃいましたが
最後まで読んでいただき、ありがとうございました💛